2010/11/11

クルターク「Jàtékok(遊び)」(追記あり)


ハンガリーの作曲家ジェルジュ・クルタークGyörgy Kurtàg(1924-) は、ヨーロッパの現代音楽の世界でも特にユニークな位置を占める作曲家のひとりです。母国ルーマニアで音楽の手ほどきを受けたクルタークは、続いてブダペストのフランツ・リスト音楽院に進み作曲とピアノを学びます。なおここでクルタークは後に彼の伴侶となるピアニストのマルタや、同じくハンガリーを代表する作曲家である盟友リゲティらと出会い、生涯にわたる長い友情を育むことになります。

バルトークの影響のもとに出発したクルタークの音楽は、2年間のフランス留学を経て、やがて民族主義とも西洋の前衛主義とも異なった独自の作風を展開してゆきます。しかし、一見すると保守的とも映る書法と、時代の潮流から大きくかけ離れた表現をもつ彼の音楽は、長いあいだ西ヨーロッパの表舞台に現れることはありませんでした。優れたピアニストでもある彼は、母校のピアノ・室内楽科の教師として教鞭をとりながら、作品を書き続けます(なお彼のクラスからはゾルタン・コチシュ、アンドラーシュ・シフをはじめとする多くの世界的な演奏家が育っています)。70年代より徐々に西ヨーロッパでも評価を得はじめたクルタークの音楽は、1981年に発表されたソプラノとアンサンブルのための「亡きR.V.トリュソーヴァのメッセージ 」の成功により一躍注目を集め、次第に世界的な評価を確立していきます。現在では多くの著名なオーケストラや演奏家たちが作品を取り上げる、現代を代表する巨匠の一人と言ってよいでしょう。 

この「遊びJàtékok」は1973年に書き始められたピアノのための小品集で、現在第8集まで出版されています。「子どもがピアノに触れた瞬間からすべての鍵盤の上を自由に走り回れたら、という考えがこの作品集を生んだ」という作曲者の言葉どおり譜面は至って単純なものですが、そこにはクルターク版「ミクロコスモス」とも言うべき想像力の広がりと音楽的な魅力があります。その想像力はときとして楽譜上に視覚的な形で表現され、演奏を通して音楽を創る楽しさを教える格好の教科書ともなります。譜例はその一部の抜粋で、大きな丸の記号は掌を使ったクラスター(近接する音の塊)を表し、♮、#で白鍵と黒鍵の指定をしています。リズム・音域等もごく大まかにしか書かれていないため、奏者はどうすればこの楽譜を「音楽的に」演奏できるか、自らの耳を頼りに考えていくことになります。

今日紹介するのは、この作品集をクルターク夫妻自身が演奏した録音です。このCDには「遊び」の中から30曲ほどの抜粋が収められており、ソロの曲とデュオの曲が組み合わされて配置されています。どれもごくシンプルなものでありながら、細部のニュアンスまで実によく行き届いた演奏で、ひとつのアイデアから音楽が生まれてくる瞬間を追体験できる快感があります。またこのCDのユニークなところは、その小曲たちのあいだにクルタークの手によるバッハ作品の美しいトランスクリプションが挿入されている点です。それらはごく自然にクルタークの音楽と調和し、聴くひとの耳に何ら違和感を抱かせません。下の映像は、そのトランスクリプションのひとつ、カンタータ「神の時こそいと善き時 Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV 106」のSonatinaを演奏しているクルターク夫妻です。




豊かな詩情とバッハへの深い愛情にあふれる演奏は、筆者には殆どクルタークの音楽そのもののように映ります。一見すると控え目とも言える抑制された表現の中に、息を呑むような響きのグラデーションと、深い美意識が湛えられています。他にも同じバッハの「おお、穢れなき神の子羊 O Lamm Gottes, unschuldig BWV deest」では、コラールのメロディの2オクターブ半上に並行する旋律を影のように重ねることによって、オルガンの五度管のストップの音色が見事にピアノ上で再現されています。音色に対する豊かな感性を示す編曲とその注意深い演奏は、質の高い録音も相俟って聴くひとに得も言われぬ心地良い時間を与えてくれます。

時代の潮流を顧みずに飽くまで自分の美意識を貫き続けたクルタークの音楽ですが、それはしかし芸術という名の象牙の塔に独り閉じこもる行為ではなく、音楽を通して他者とつながろうとするポジティブな行為でもありました。彼の作品にはしばしば「オマージュ」、「メッセージ」といったタイトルが付けられていますが、これらはクルタークの音楽の源泉に常に偉大な作曲家たちへの敬意や、彼を慕う音楽家たちへの親密な友情が内在していることを示唆しています。全く独自の世界でありながら、同時に過去の作品や周りの演奏家たちにもひらかれた音楽。今の時代には決して容易くはない音楽のひとつの理想的な在り方を、クルタークの作品は示してくれています。


クルタークの作品は多くの録音が出ており、特に室内楽作品は数多くのアンサンブルによって演奏されています。ここではベルリン・フィル木管五重奏団によるハンガリー作品を集めたCD(B0000016KZ)と、ケラー四重奏団によるクルタークの弦楽作品集(B000024R10)を挙げておきます。このECMから発売されているクルターク夫妻のCDも以前から愛聴していたのですが、先日実際にコンサートで二人の演奏を聴いてその美しさに改めて感銘を受け、これはぜひ紹介しなければと思い久しぶりに更新してみました。
これからはささやかな記事をもう少しこまめに書いていこうかな、と思っています。


(2012年10月12日追記)

2012年の9月にパリで行われたクルターク夫妻のデュオ・コンサートの模様が、シテ・ド・ラ・ミュージックのサイトにアーカイブされており、2013年1月までコンサート全体の録画を見ることができます。


(*現在は一部のみの公開です。全体をご覧になりたい方はこちらからどうぞ)

曲目は「遊び」からの抜粋にバッハのトランスクリプションを組み合わせた、CDと共通の構成を採っています。和やかな雰囲気に包まれたとても素敵な演奏会で、終演後は会場からの温かい拍手がいつまでも鳴り止みませんでした。