2009/10/04

音の“あいだ”

古典落語の演目に、「搗屋幸兵衛(つきやこうべえ)」という噺があります。何かにつけて小言を言わずにはいられない幸兵衛という家主(いえぬし)と、貸家の札を見てその幸兵衛のもとにやってきた搗米屋(自ら米を精米して売る米屋さんのこと)の男とのやりとりが主な聴きどころですが、その噺の中に、搗米屋が唄をうたいながら仕事をする光景の描写が出てきます。こんな唄です。

鐘が鳴るのかヨ〜 鐘木(しゅもく)が鳴るかヨ〜 ズシン!(*杵が米を搗く音) 
鐘と鐘木のヨ〜 ”アイ” が〜鳴ル〜 ズシン!
  
一見素朴なこの作業唄は、何気ない言葉で、音のもつ不思議さをうまく掴んでいます。鐘にしても鐘木にしても、それぞれがただそこにあるだけでは、決して音は響きません。では音はどこから鳴っているのか?どうも音はそのアイ(間)にあるようだ。いや上手いことを言ったものです。

同じような感触を持った言葉に、禅の公案で「隻手音声(せきしゅおんじょう)」と呼ばれているものがあります。「両掌(りょうしょう)相打って音声(おんじょう)あり。しからば隻手(せきしゅ)に何の音声かある」という公案で、「両方の手を打ったら音がするが、では片手の音はどういうものなのか」というような意味になります*1。こちらは禅の公案ですから、言葉は単なるきっかけに過ぎないのかもしれませんが、これをそのまま音についての問いと受け取っても、なかなか興味深いものに映ります。ここでも音は、右手と左手どちらにあるわけでもありません。とりあえずはその両手の(あるいは手と空間の)あいだにある、と言っておくしかなさそうです。
 
現象としての音を物理的に説明しようとすれば、事態はもう少しはっきりするでしょうか。先ほどの鐘の例をとるなら、鐘木を通じて外から与えられた力が、鐘の構造を一定の周期(これを固有振動数といい、一秒あたりの振動の数(Hz)が音高を決定します)で震わせ、その振動が音波として空気中に伝播していく、というのがその大まかな記述になります。しかし、これだけではまだ「音」とは言えません。空気中を伝わってきたその音波が私たちの耳まで届き、聴覚を通して変換されることによってはじめて、それがある固有の音高・音色を持ったひとつの音と認識されるのです。しばらく前に「モスキート音」という、年を取ると聴こえなくなる蚊の羽音のような超高周波数の音を利用した商品が話題になりましたね。これも学生たちにとってはひとつの音ですが、それが聴こえない教師にとっては、どうも「音」とは言えそうもありません。かといって、音は我々の頭の中にだけ存在している、と言い切ってしまうのにも抵抗があります。・・ここでも筆者は、空間におけるそれぞれの関係のなかに音の正体を見出したい誘惑に駆られます。聴覚と脳の、音波と媒質の、そして鐘と鐘木の”あいだ” ―。
しかし音の問題にはまだ、時間というもうひとつの大きな「間」が控えています。

哲学者の大森荘蔵氏は、その著作の中で時間の経過を表す比喩を、「光陰矢のごとし」ではなく「光陰音のごとし」にしてはどうかと提案しています*2。たしかにどうしても言葉をすり抜けてしまうような時間の性質は、ある到達点に向かって飛ぶ矢よりも、どこか曖昧で捉えどころのない音の姿に似ているようですね。そしてその音の知覚の側には、時間とのきわめて密接な関係があります。


ドイツの作曲家シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen 1928-2007)は、この音(サウンド)と時間の関係に深く切り込んだ最初の作曲家のひとりです。音の高さだけではなく、音の長さや強さといった音楽のあらゆる要素を「セリー série 」とよばれるスケールによって操作することを目指した、第二次大戦後の「トータルセリアリズム(総音列主義)」音楽の旗手であったシュトックハウゼンは、その探求の帰結として当時生まれたばかりの電子音楽にたどり着きます。音色自体をセリーに基づいて正弦波から人工的に合成でき、かつ人の手では演奏不可能な書法をも正確に再現できるこの電子音楽という手段なら、完全に純粋なトータルセリアリズムが実現できると彼は考えたのです。ところが、実際にスタジオでシュトックハウゼンが遭遇したのは、純粋さとはおよそかけ離れた音の内部に畳み込まれていた「カオス」でした。彼は作曲家の友人へ宛てた手紙に、こう記しています。

「たったひとつの音の中に何というゴチャゴチャしたカオスがひそんでいることか、信じられないほどだ!」(1952年12月13日、カレル・フイファールツ宛)

身の回りのあらゆる音を録音して分析する、あるいは発振器やフィルターを用いてサウンドを合成する―実験を重ねていくうちにシュトックハウゼンは、我々が普段使っている音の単位というものが、実はひとつの連続したプロセスであることに気づきます。
たとえばここにピンポン球がひとつあって、これをある高さからテーブルの上へ落下させると考えてみてください。落ちてきた球はまず「コーン、コーン」と大きなバウンドを繰り返したあと、徐々に「コン、コン」というリズムを刻み出し、そのリズムはやがて「コッコッ」「コココ・・・」という具合に圧縮されていって、最終的には「コオオオ」「コーーーー」というある一定の音色を持った音高へと収斂していきます。リズムを生み出していたピンポン球の運動が、いつの間にか音高の領域へと移動しているのです。つまり、「律動」と「音高・音色」という、音楽の分野で全く別の種類のものと考えられている領域も、実は同じ領域の異なるスケールであって、あるひとつの時間の伸縮を我々の耳が分割して知覚しているに過ぎないのです。
反対に、あるひとつの音の周期を「コーーーン、コーーーーーン」という具合にどんどん引き延ばしていくと、ここでもまた違った発見があります。周期一秒と二秒の差は一秒であり、周期十一秒と十二秒の差も同じ一秒ですが、前者の差を私たちは相対的に大きく感じますし、後者の差はほとんど知覚できません。つまり私たちは、音の持続を差によってではなく比によって知覚しているのです(1:2は11:12よりはるかに大きな比率になります)。音高の表現を借りるなら、「絶対<時>感」などというものは存在せず、自らの生理的な感覚を基準とする「相対<時>感」だけが存在しているというわけです。
シュトックハウゼンはこれを「時間連続体」または「音楽的時間の統一性」とよばれる理論にまとめ、その理論を音楽に翻訳する形で作品を生み出していきます。つまり音色というミクロの時間と、リズムや楽節、形式にまでいたる様々なマクロの時間の形態をこの「時間連続体」において結合し、これらの異なるレベルすべてを、相似的な原理に基づいて作曲しようと試みたわけです。彼の代表作のひとつである、3群のオーケストラのための「グルッペン」(1955-1957)では、八分音符や十六分音符といった単純な音価ではあらわせない音の長さのセリー(持続の半音階)を実現するために、3人の指揮者によってそれぞれのオーケストラに異なるテンポが与えられています。

音について考えることは、同時に我々がどのように時間を認識しているのかについて考えることでもあります。シュトックハウゼンはその講演の中で、ドイツの生物学者ヴァイツゼッカー*3の言葉を引いて、次のように述べています。
「伝統的な概念において、事象は時間に存在し、新しい概念においては、時間は事象に存在する。」
この「事象に存在する時間」というものに思いを馳せるとき、音を聴くという行為は、その思索の格好の出発点になるのではないでしょうか。


参考資料
K・シュトックハウゼン「電子音楽の四つの特徴」(ユリイカ1998年3月号 特集:解体する[音楽] 青土社)
K・シュトックハウゼン「・・・いかに時は過ぎるか・・・」(シュトックハウゼン音楽論集 清水穣 訳 エートル叢書) 
「サントリーサマーフェスティバル2009 特別演奏会<グルッペン>プログラムノート」清水穣

脚注
*1 松岡正剛「千夜千冊 第1175夜: 無門慧開「無門関」」(web)
*2 大森荘蔵「流れとよどみ―哲学断章」産業図書
*3 ヴァイツゼッカー
(Viktor von Weizsacker 1886-1957)は、ドイツの生物学者。哲学や生理学を横断した、より総合的な医学的人間学を構想する。邦訳に「ゲシュタルトクライス」(みすず書房)など。


シュトックハウゼンの思考の軌跡は、「シュトックハウゼン音楽論集」という本でたどることができます。作曲家本人とも親交があった清水穣さんという方の翻訳で、原語以外では殆ど読むことのできない貴重なものです。とりとめもなく書き連ねてしまいましたが、これらの断片が「音」というものについて考える、ささやかなきっかけになればと思います。
なお落語の「搗屋幸兵衛」は、もともと「小言幸兵衛」という噺の一部でしたが、全体としてあまりに長くまた一貫性に欠けることから現在はふたつの噺に分かれ、前半が「搗屋幸兵衛」、後半が「小言(または道行)幸兵衛」という形におさまりました。多くの噺家が高座にかけた「小言〜」に対し、こちらの「搗屋〜」は古今亭志ん生系の演者さんだけが持ちネタにしていたようで、筆者が参照しているのは志ん生師匠の次男、三代目古今亭志ん朝の録音です。ここでも志ん朝師匠の華やかな語りのリズムと緻密な人間描写は健在で、一見嫌みなようでいながらどこか憎めない幸兵衛の人柄を見事に表現しています。って完全に話がずれてますね。あまりお後はよろしくありませんが、この辺でお暇を頂戴致します(_ _)